天馬
金史良
一
ある重苦しい雲の垂れこめた日の朝、京城での有名な廓、新町裏小路のとある娼家から、みすぼらしい風采の小説家玄竜がごみごみした路地へ、投げ出されるように出て来た。如何にも彼は弱ったというふうに暫く門前に佇んで、一体どこから本町通りへ抜け出たものかと思案していたが、いきなりつかつかと前の方の小路へはいって行った。けれど界隈が界隈だけに、地に這うような軒並のいがみ合っている入りくんだ小路の、どこをどう通れば抜け出られるか皆目見当がつかない。右に折れるかと思えば又左の方へはいって行く。やっと左から出て行くと又路地は二つに岐れて立ん坊になるといった工合である。何か深い物思いに沈んで彼はてくてく歩き続けたが、袋小路などに突き当って、はっと思い、辺りを見廻したりした。前といわず、横といわず、大門に赤や青のペンキを塗りたくった、いずれも土壁が今にも崩れ出しそうな家ばかりである。こうして又、黙々と折り返し方々縫い歩く中に、とうとう彼は迷い込んでしまったのだ。そう早くもない時刻だが、どの小路もひっそりとして、時々朝帰りの客が、きまり悪そうに肩をすぼめてふらふらと通り過ぎる。どことも知らず迷い込んだ塩売り爺さんは、やけに、
「塩やーい、塩やい!」
と叫び廻っていた。玄竜はようやく三叉に岐れたところまで出て来ると、ゆっくり「みどり」を一本取り出して咥え、辺りを見廻しつつ不機嫌そうに何かをぶつくさ呟いた。どうも気に食わぬ女を抱いたものだと思ったら、帰り途にさえこんなに手古摺るわいと彼は愚痴るのだった。だが、それよりも先程から彼の心の一隅にはどうしても払いのけることの出来ない黒い雲のわだかまりがあるのだ。時々それは強く胸をしめつけるようでさえある。実に彼はあるのっぴきならぬ事情から、この二日の中に頭髪を剃りお寺へ修行に参らねばならぬ身の上だった。それ故娑婆の悦びもこれでおしまいかと思えば興奮のあまり、昨夜敵娼の頬をメロンだメロンだと叫んでかぶりついたのであるが、女はこういう天外な芸術家を理解しようとはせずにびっくりして飛び出したのである。彼はそんな不快なことを思い出して畜生、忌々しいと再び呟きつつ、兎に角一応小高い所まで出て見ねばなるまいと考えをきめ、いくらか坂になっている小路をさして又とぼとぼ歩き出した。やはり突き当ったり、くねりくねり曲ったりしつつ、ようやく坂の上、陽春館というそれも青ペンキ塗りの大門の前まで辿り着いた。辺り一面、数百千と坂をなして密集している朝鮮人の娼家の屋根が、右にも左にも上にも下にも波打っている。生温かい初夏の風に吹かれつつ誰かの詩にあるような、われ今山上に立つといった恰好で暫し突立っていると、ひたひたと寄せて来るやるせない淋しさをどうすることも出来なかった。男達が右往左往し娼女達の嬌声が高らかに響き返っていた昨夜の娼家界隈とも思われない程、辺りは森閑としている。だがこの満ちあふれる家々の中に何千という若い女が洗いざらしの藷のようにごろごろしているのに、自分は二日もすれば薄暗い妙光寺の中で寝起きせねばならないのか。玄竜はそこで二本目の煙草を取り出して火を附け、ふーと煙を吹き上げた。ぼうっと陽炎に霞んで程遠く西の彼方に天主教会堂の高く聳え立った鐘楼が見え、そこら辺りに高層建築が氷山のように群立っている。正に彼の行こうとする目標だ。それにしてもさて何処から下りて行ったものだろうかと頭をめぐらしたと思うと、彼はわれ知らずくすりと笑った。朝鮮家の屋根屋根を越えて南の麓の方を眺めた時、本町五丁目と思われる辺りに、黒い変圧器を幾つものせた異様な電信柱がふと目に附いたのだ。それはいつだったか、泌尿病院を捜して徨い歩いた時、そこにさる所の広告がぶら下っていたことを急に思い出したからである。そうだ、あれを目印にして下りて行けばいいと彼は自分に云った。――
本町通りと云えば京城では一番繁華な内地人町(日本人町)で、それは蜿蜒と東西に細長く連なっている。ようやく廓の出口を捜し当て、そこから本町五丁目へ玄竜がのっそり現われ出たのはもう十時すぎ、通りには人影も多く割り方賑やかだった。彼は文人でも官吏でも、誰か親しい人に会いたいものだと思いながら、眼尻を下げやや俯向き加減で通りの真中をがに股で歩き出した。或は彼自身が云っているように、本当に柔道初段以上のために広過ぎる程の肩が凹み込んでいるのかは知らないが、がに股はあの妙な電信柱を知るようになって以来のことだった。殊に救いのないような孤独と深い憂悶の中に捉われている今の彼である。けれどとうとう明治製菓の近くに来るまで、ついぞ誰一人にも会うことが出来なかった。その時ふとこの明菓で開かれた昨夜の会合のことが思い出される。「貴様こそ朝鮮文化の怖ろしいだにだ!」と叫んで、皿を投げて来た評論家李明植の鋭い顔がすうっと閃いて見える。彼は思い深げにその入口の前に立ち止ると、へん、青くさい野郎奴、今こそ豚箱で……とにやり薄笑いを浮べた。それからどれ、一つはいってやるかなという気になったらしく、急に胸を張り肩を怒らして慌しげに扉を押してはいって行った。ホールの中はがらんどうで、隅っこに僅か二人の外交員風の男が向い合って、ひそひそ何かを話し合っているきりである。玄竜はその真中の方へ徐ろに進んで行きどっかり坐り込むと、給仕の女の子を手招き寄せ暫くじいっと顔を見上げていたが、女の子が気味悪げに赧らむのを見るなり突然叫んだ。
「コーヒー」
女の子はびっくりして飛んで行った。で、彼はすっかり満足してにたっと笑いを浮べお尻を上げると、今度はどういうつもりか調理場の方へ狗のようにはいって行くや、
「ひー済みませんね」と相好をくずし、手をぴょこんと差し出した。「おしぼりを一つ……」
こういった馴れ馴れしさからみるに、調理人達はとうに自分を知っているに違いないと思っている訳であろう。成程彼等は昨夜二階で起った不祥事件を知っているので玄竜を覚えていた。丁度朝鮮文人達の会合があって何かを皆が熱心に討論し合っているところへ、片隅で突然玄竜がけらけら笑い立てたかと思うと、彼は一人の若い男から突然皿を投げ附けられ、頭を打たれて倒れたが、仰向けになったまま尚も不貞腐れたようにけらけらと笑うのを止めなかった。その場で李明植というその若い男は傷害のかどで臨席の警官に連行されて行った。調理人達はその席上の玄竜のふてぶてしさに随分驚かされたが、又こういう調理場のような変なところへ彼が現われてみると、いよいよ面喰らって怪訝そうにお互い顔を見合わせた。誰とて笑う者もなく、ただ一人が驚いたように首を振っておしぼりはないという仕草をした。と、彼は一度でれりと横目で皆を睨み附け、いきなり鼠のように水道の方へ飛んで行ってざあざあ水をぶっ放したかと思うと、頭を突き出してふーふー水を浴びながら顔を洗うのだった。皆はてんから呆気にとられたが、彼がへへへと照れ臭そうに笑いつつ出て行った時、
「気違いじゃろか」と先の一人は首をひねったのである。
「いや、玄竜だ、玄竜だよ」
「そうだ、あれに違いない」
「小説家の玄竜だよ」
等と、皆は口々に囁き合いながら、食器の出し口に寄り集って覗き出した。見れば玄竜はもう自分の席に帰って、丁度傍においてあった朝刊を鷲掴みにして顔や首筋をふいているのだった。彼はちらっと流眄で調理人達が詰め寄り自分の方に目を注いでいるのを見やると、すっかりいい気になって、真黒く濡れて皺くちゃになった新聞紙をぽんと鷹揚に卓の上へ投げた。そこで何気なしにそれに目をやったところ、紙の一つの襞の方を大きな一匹の南京虫がのそのそ這い廻っているのを見て目を瞠った。思わず彼はにこりと笑いを浮べ、心持ち体を乗り出したのである。南京虫はあまりに血を貪り啜ったのであろうか、急に逃げ腰になってはいるが、赤く膨れ上り過ぎて足が云うことをきかぬらしく体を持てあましている形だった。時々辷って転げ落ちそうになるが、指先を持って行けば又慌てて逃げ出すのだった。もともと彼は南京虫が好きである。地べたにひっついて這い歩く様子が、自分の態によく似ているとでも考えているのだろうか。或はその図太さや狡さが好ましく思われているのかも知れない。それにおやこれは今まで自分の首筋を這い廻っていたのに違いない、さてはあのメロン頬の女から背負わせられた奴かなと思うと、何故かしらくすぐったいような腹立たしさを感ずるのだった。彼はいきなり肩をうねらせてひひひと笑った。が、おやっと思ってみるといつの間にやら、南京虫はすごすご急いで今度は襞の裏の方へ逃げ隠れようとしている。彼は素早くその一端をつまみ上げてそうっと裏返し、いかにも面白そうに飽くまでその行方を見守った。ところがものの二三分もせぬ中に突然彼は目をむいて仰山に驚き上った。南京虫は丁度ある一つの見出しの上を通りながら、一字一字を彼へそれとなく読ませたのだ。実に何ということか。瞬間、これは天祐ともいうべきいいチャンスだぞと彼は思ってしまった。キリストの復活だとも考えた。たとえ学芸欄の一隅の小さな活字とはいえ、彼とはそれこそ本当に並々ならぬ親交のある、東京文壇の作家田中が、満洲へ行くついでに京城へ立ち寄って朝鮮ホテルに投宿しているということをそれは知らしていたのだ。
「行かねばならん」
玄竜はぶるっと身をふるわせて立ち上ると、一旦重々しく肩をすくめ出口に向って南京虫のように動き出した。彼には固く念ずるところがあったのである。丁度行きしなにコーヒーを運んで来る女の子とぶっつかりそうになると、ひったくるように茶碗を捉え上げて熱いのも構わずぐいぐい飲み干し、呆然となっている女の子や調理人達を尻目にあたふたと出て行くのだった。
本町通りはいくら午前中でも明菓あたりから通り出口の方にかけては、人々の群でいつも氾濫する程に雑沓する。そそっかしく下駄を鳴らして歩く内地人(日本人、以下同じ)や、口をぽかんとあけて店先を眺める白衣のお上りさんや、陳列窓に出した目玉の動く人形にびっくりし合う老婆達や、買物に出掛ける内地婦人、ベルの音もけたたましく駆けて行く自転車乗りの小僧に、僅か十銭ばかりの運賃で荷物の奪い合いをする支械軍などで。玄竜はこういう人々の波をくぐるように急ぎ足で通り抜け、鮮銀(朝鮮銀行)前の広場に出て立ち止った。電車が繁く往き交い自動車が群をなしてロータリーを走り廻っている。彼は慌てふためきつつ広場を突き渡って、向い側の静かな長谷川町の方へはいって行った。暫く歩いて行くと右側に高い昔風の塀が続いて、古色蒼然とした宏壮な大門が立ち現われる。それをくぐってはいれば広い庭園の中に、韓国時代どこかの国の公使館であったとかいう立派な洋館があった。玄竜はそこまで殆んど無我夢中に辿り着くと、胸を躍らせつつ廻転扉を押して追い込まれるようにはいって行った。
「田中君に取り次いで下さい」と彼は帳場の前に立ち現われるなり、十二分に威厳をつくろって口を切った。「僕、玄竜と申します」
髪を綺麗に梳いて分けたボーイは野郎又来やがったなといった調子で、彼の方を上から下へとじろじろ眺めてから、
「お出掛けですが……」
「出掛けた?」玄竜は如何にも意外らしげに、しかも自分はそれを充分意外に思ってもいい人だというふうに、「一体誰と?」
「はあ」ボーイはいささかけおされて恐縮した。「そのう何でも雑誌社の方でしょうか」
「雑誌社の方?」
はたと悪い予感に襲われてから慌しく問い返す玄竜の顔には、明らかに狼狽したような焦だたしい不安な影がかすめ通った。それはきっと大村に違いない。大村だとすればこれは大変だと思ったのである。それでせき込んで質ねた。
「U誌の大村君じゃないんですか?」
「それは、分りませんよ」と今度は横合いの方から他の中年のボーイが恰で怒ったように叫んだ。実際内地(日本、以下同じ)の芸術界から誰か知名の人でも来ると、ぐうたらな文学くずれ達がいかにも朝鮮の文人を代表するような面で押し掛けて来るので、ボーイ達はうんざりするのだった。今も田中が大村やある専門学校教授とに伴われ、後には朝鮮人のそういった文学くずれを四五人ぞろぞろ随えて出て行った後である。玄竜は殊にこういう訪問の癖がひどくて毎日のようにお客を訪ねて来るので、ボーイ達でさえよほど彼を持て余している訳だった。「一々それまで覚えておれませんからね」
「へ、成程これはどうも、へへへそうでしょうな」
と、玄竜は云いつつ頭に手をやって卑屈そうに笑うのだった。けれどどうしてもそのことが気にかかってならないので、「……多分大村君じゃないでしょうね、そうですよ、きっとそうですよ」と何度も独りで強く肯いてみせた。
それから急に首を突き出し、手では奥のロビーの方を指しながら、
「一寸ソファーを借りますぜ」
と云うとくるり背を向けた。そしてロビーは人を待つのに役立つことを、自分はこんなによく知っているぞといわぬばかりの様子で、肩を揺りつつゆっくりとロビーの方へ向って進んだ。そう云えば彼の小説にはいつも、ホテルやロビーとか、ダンスホール、サロン、貴族夫人、黒ん坊運転手といったようなものがどっさり登場していた。ところで彼は何を思い出したのか、つと立ち止ったと思うと、振り返ってから叫んだのである。
「田中君が帰ったら一つ頼みますぜ。へ、僕は眠いんですよ」
二
広々としたロビーのソファーに横になって鼾の音も高く、優に四五時間も心ゆくままに眠りをとった玄竜は、洋服の埃を打ち払いつつぼそぼそ起き上った。ロビーの中はもう薄暗くがらんどうである。両手を拡げてゆっくりと伸びをしながら何度もあくびをやった。すると急に彼は空腹を感ずるばかりでなく、中々田中が帰りそうもないので、一応出て行こうと思って寝呆けた顔を突き出し帳場の方を窺ってみた。ところが丁度もっけの幸いに帳場には誰もいなかったので、彼は素早く脱兎のように抜けて外気の中へ飛び出したのである。もはや午後の日差しがうっすら淋しく大道にかげり、空風があちらこちらに埃を吹き上げている。どこかで安い食事を取って、それから一先ず田中達が行っておりそうな所を方々捜し廻らねばならないと彼は考えた。けれど自分にもどういう訳かははっきり分らないが、彼は再び歩き出しつつ怪しからんと憤ろしげに呟いた。恐らく田中が自分に朝鮮へ来るからという知らせの葉書一枚もくれなかったことをいうのであろう。確かに彼は自分が朝鮮に帰って今は歴とした大家になっているなどと、あられもないことを何度も云ってやった筈だのに。
わが京城は黄金通りを境界線として、その以北が純然たる朝鮮人街である。長谷川町から黄金通りへ出、茶房リラの前へ通りかかった時、玄竜は一寸覗くだけにしようと首を突き入れ一亘り紫煙の中を見渡したが、そのとたんにわれ知らずにこりと笑った。一杯人々のとぐろを巻いているさ中に、目もさめるばかり真白く着飾った女流詩人文素玉が、百合のように楚々と坐っていたのだ。彼は急に幸福な気持になって転ぶようにその中へはいって行った。有名な玄竜が現われたので人々はお互い突つき合ったり、ぷっと吹き出したり、わざと蔑むようにそっぽを向いたりしていた。女流詩人は丁度若い大学生の恋人を待っていたところだが、こういう注視の的の小説家が自分の方へやって来る嬉しさに、つい何もかも忘れてしまい、やや大きいめの脣を歪めて含み笑いながら彼を迎えたのだ。
「あらまあ、玄さん、珍しいですこと」
「へへえ、これは又至極面白いところで……」
と近附くや、玄竜は彼女の向い側の方にどっかりと坐り込んだ。皆の好奇の目は一斉にこの二人の方へ注がれた。尤も彼等は皆とっくからもう退屈していた。だが、退屈といえば毎日のように退屈な連中ばかりである。所謂茶房の彼等も亦現在の朝鮮の社会が生んだ特別な種族の一つであろう。少しばかり学問はあるが職は与えられず、何もなすことがないので髪でもクラーク・ゲーブル式に分けてみようといった手合とか、或はどこかに製作費を出すような莫迦息子はいないものかと、首をひねり合うちょび髭を生やした映画不良やら、何かこそこそと隅っこで企み合う金山ブローカー達、原稿用紙の束を片手に持って歩かねば芸術家でないと思い込んでいる低級な文学青年、そういった連中ばかりだが、さすがに彼等も二三時間以上も頑張っておれば、話題は尽き頭も疲れていた折なので、突然玄竜が現われ美しい女流詩人と向い合うようになったことは、確かに興味深いことに相違なかった。京城の文化社会で誰一人知らぬものはない二人が偶然そろいもそろって対坐した訳である。それに文素玉は玄竜にとっては単なる女流詩人ではないということも、彼等はよく知っていたのである。
「今日は又どうなさいまして」
彼女はわざと恥らうように口元へハンケチをあてがった。
「実は――ヘーノイエ・シュタット(新町)に行って来たんですよ」と云って、玄竜はいかにも好奇心をそそるようににやにやと笑いを浮べた。むろん女流詩人はそのドイツ語の意味を知るよしもなかったので、
「え?」
と目を丸くするや、彼はいよいよ得意げに腹の皮をよじらせつつ笑うのだった。そして又思い出したようにふふふと笑った。頽廃のかげりを宿した彼女の頬には紅潮がほんのりとさし現われ、ちぢれた前垂れの髪はゆらぐかの如く見えた。玄竜は急に痙攣でも起したように強ばって、ぐっと食い入る目附で彼女の顔を凝視した。
軽薄な女流詩人文素玉は玄竜をこの上もなく尊敬しているのだった。彼はいみじい詩の言葉、ラテン語やフランス語を知っているばかりか、彼女の好きなランボウやボードレールともただ国籍を異にしているだけに過ぎないと彼女は固く信じている。玄竜は又自分でもそう嘯き廻っていた。何しろ彼女は詩人としてもランボウの詩を幾つかもじってみた位のところであるが、それを玄竜が二三流の雑誌に担ぎ上げて彼女の美貌と共にその前途を謳ったのだ。彼女がすっかり詩人になった気取りで、人の出版記念会とやらにはどういうことがあっても出席するようになったのも、それ以来のことである。彼女が目もまがうようなあでやかな姿で会場に現われると、玄竜は何時もぶるっと立ち上ってこっちへ、こっちへいらっしゃいと自分の傍へ連れて来るのだった。彼女も所詮は現代の朝鮮が生み出した不幸な女性の一人であるとも云えようか。口を開けば合言葉である封建打破という若々しい熱情から、女学校を出るなり結婚問題さえふりきって東京にまで留学に旅立った彼女。だが内地で専門学校を出ると同時に、曾つては自分が打破せねばならぬと云い且つ又闘ったつもりの封建性の復讎を、真先に彼女自身受けねばならなかった。当時は結婚しようにも早婚のため妻を持たぬ青年はどこにも見附からなかったのだ。あたら青春の血潮を如何ともすることが出来ず、こうしてだんだん男達と接触する中に乱倫の道に陥ち込んだ。だが彼女は己こそ真向から旧制度に反抗し新しい自由恋愛の道を切り拓く先駆者だと思い込み、次々と自分の方から男を作って行くのだった。玄竜も他ならぬその相手の一人である。ただ違うとすれば、それは玄竜とだけは、二人同志がお互いの狂痴に馴れ合いすっかり満足し合っていることと云わねばなるまい。
「昨夜U誌の大村君が又僕んところへ来たんですよ、いいですか、大村君がウイスキーを持って来たんですよ」と玄竜は続け出した。「今夜中に書いてくれなければどうしても帰らんといったような訳でしてね、それにはさすがに僕も弱りましたよ。丁度東京への原稿を書いていたところなんですから。一寸素晴しいもんですぜ。Dという一流雑誌に三月も前からせびられている奴なんですよ」
「期待しますわ」女流詩人はこの上もなく感動して小さな目を輝かした。
「僕はもう朝鮮語の創作にはこりました。朝鮮語なんか糞喰らえです。だってそれは滅亡の呪符ですからね」そこで昨夜の会合のことを思い浮べながら、出鱈目な見得を切ってみせた。
「僕は東京文壇へ返り咲くつもりです。東京の友人達も皆それを一生懸命にすすめているんです」
けれどその実文素玉のような女は、昨夜明菓で本当に朝鮮の文学を守りたてているような真摯な文人達の間に会合があったことを知っている訳がない。玄竜だってどこかでこの文人達の集りのことをかぎつけて、殆んど会も終る頃のっそりと現われたのだ。が、そこには彼を朝鮮文化の怖ろしいだにとして憎悪擯斥している男女ばかりがずらりと並んで、面々に興奮と緊張の色をみなぎらせて朝鮮文化の一般問題だとか、朝鮮語による述作問題の是非について熱心に討論し合っていた。彼はへーと笑いつつきまり悪そうに片隅へ離れてちょこなんと腰をかけた。やはり彼等は自分達自身の手で朝鮮の文化を打ち樹てそしてその独自性を伸長させるべきで、そのことは又結局は全日本文化への寄与でもあり、又ひいては東洋文化のため世界文化のためでもある等と語っていた。玄竜は一人一人の顔をじろりじろりと眺め廻しつつ、恰で人を食ったようににたにた嗤ってばかりいたものだ。一瞬間若い血気盛りの評論家李明植の鋭い視線とかち合ったことを覚えている。彼は思わずその時ぎくりとした。何だか李はぶるぶる神経の一つ一つをふるわせているようである。突然李は興奮のあまりに、喉元をごくごくさせつつ、
「それは自明なことだ」と叫ぶのだった。「朝鮮語でなくては文学が出来ぬという訳ではない。僕は言語の芸術性のためにのみこのことを云っているのではない。何百年という長い間固陋な漢学の重圧のもとで文化の光を拝むことが出来なかったわれわれが、曲りなりにでもだんだんとわれ等の貴い文字文化に目覚めて来た今日ではないか。李朝五百年来の悪政の陰に埋れた文化の宝玉を発掘し、それによって過去の伝統を受け継ぐために、過去三十年間われ等はどれ程血みどろな努力を払ってこれ位の朝鮮文学でも打ち樹てたのであろうか。この文学の光、文化の芽をどういう理由で僕達の手で又葬るべきだと云うのか。だが僕はこれのために又徒らに感傷的になって云うのでもない。実に重大な問題は朝鮮人の八割が文盲であり、しかも字を解する者の九〇%が朝鮮文字しか読めないという事実なんだ!」
その時玄竜は突然きききと嗤い声をたてた。
「黙れ!」
「黙れ!」
と云う声が嵐のように起った。
「まあ、いい」と李は目をつぶって気を押し静めようと努めながら呻くようにふるえを帯びた声で論を進めた。「朝鮮語での述作がこの人達に文化の光を与える為にも、はた又彼等を愉しませるためにも、絶対的に必要なのは論を俟たぬことではないか。今も厳として朝鮮文字の三大新聞は文化の役割を立派に果しているし、朝鮮文字の雑誌や刊行物も民衆の心を豊かにさせている。朝鮮語は明らかに九州の方言や東北の方言の類とは違う。もちろん僕は又内地語で書くことを反対しているのでもない。少くとも言語のショービニストではないのだ。書ける人はわれらの生活や心や芸術を広く伝えるために大いに働いて貰わなければならない。そして内地語で書くことを慊らずとする者、又は実際に書けぬ者の芸術のためには、理解ある内地の文化人の支持と後援のもとに、どしどしいい翻訳機関でも拵えて紹介するように努めるがいい。内地語か然らずんば筆を折るべしという一派の言説の如きは余りにも言語道断である」そこで急に卓を叩いて立ち上った。
「それでだ! 玄竜、君はこの問題をどう考えるんだ?」
玄竜を睨み附ける目からは火が出るようだった。彼は瞬間すくみ上ったことである。その実玄竜は体よく愛国主義の美名のもとに隠れて、朝鮮語での述作はおろか言語そのものの存在さえも政治的な無言の反逆だと讒誣をして廻る者の一人なのだ。それでなくてもこういう純粋な文化的な述作行動も、朝鮮という特殊な事情から、その本来的な芸術精神さえがややもすれば政治的な色彩を帯びているものとして、当局の誤解を招き易いと云えば云える。殊に事変以後その危惧は一層甚しかるべきである。玄竜はそれにつけ込んで愛国主義をふりかざし人々を売りつけながらのさばり廻っているのだった。それでどれ程多くの無実な人々が不安と焦躁、苦悶の深淵に突き落されたことだろうか。実際この会合は玄竜一派の言説に対する批判会だったのである。玄竜はその時体を反らしていかにも莫迦にしたように、
「朝鮮語か」
と一言あしらってせせらわらった。ここにおいてついに李明植は心燃え上り皿を取り上げてぶち投げた。皆はどっと騒ぎ出した。だが彼は頭を打たれて仰向けに倒れてからも不貞腐れたように尚けらけらと笑い続け、李明植は傷害のかどで検挙されたことは既に御承知である。後から彼は会場を出て一人で新町の廓の中へ浮れ込んで行って、どこか安い銘酒屋でウイスキーを何杯もひっかけるなり、その足で娼家の門をくぐったものである。彼はそれを思い出すと何となく気恥しくもあり又おかしくもなってくすりと笑ってしまった。それからまぎらわせるように慌てて立ち上りかけた。
「何時頃でしょうか」
「まあいいじゃありませんの、本当にせっかちですこと」と云いながら、文素玉はちらっと腕時計を覗いた。「まだ六時前ですのよ。そらおコーヒーを早く持って来てよ」
「じゃついでにトーストも貰いましょうかね」と云って、釣り込まれるように再び玄竜は腰を下ろした。
「……それでです。何しろ社長の大村君がじきじきやって来られたんじゃね、とうとう僕も参って書いてやったんですよ。すると奴さんすっかり悦びやがって僕を引っぱり出してね、ぐでんぐでんに酔っぱらわせてあのノイエ・シュタットに連れ込んだんですよ。ところが、それがね、メロンのように頬の黄色い女でしたよ……」
それからこのメロンのようにという言葉がとても肉感的に思われて自分ながらすっかり気に入ったらしく、もう一度繰り返して強調した。
「メロンのようにね」
さすがの女流詩人も彼が臆面もなく行って来たというその意味がやっと分ったとみえわれ知らず顔を火照らしたが、それでも自分の気づまりな様子をみせては安っぽく見られるに違いないと思い返して、いかにもそれはもうとっくによく知っているけれどといった調子でこう応じたのだ。
「よかったんですわね、……素敵ね。それでも玄さんをお寺へ入れるというお方が、よくまあそんな所へ連れて行きましたのね」
「だからですよ」と小説家は顔の筋肉をひきつらせて慌てたように叫んだ。「それだから官僚たちの気はどうも分らんというのですよ。一種の気紛れなんですね。要するに大村君は僕という人間がまだ分っていないんです。つまり尋常でない芸術家が分らんのです」
「そうね」女流詩人は愁然として肯いてみせ、それから不意におほほほと笑い出した。
「いや笑うことではないのです。ランボウやボードレールが一般の俗人達にどんなに非難されたかを少しでも憶い出してごらんなさい」玄竜はいよいよ雄弁になって手を振り上げた。「朝鮮の芸術家、それは何という不幸な存在でしよう。自然は荒廃し民衆は無知であり、インテリは又芸術の高貴さを知らない。僕はここでゴーゴリがペテルブルグの画家を慨いたことを思い出します。凡てが鈍重で悦びもなく又誰一人にも朝鮮の芸術家は大事にされないのです。捨てられた芥の中でもがき合っているだけなんだ。僕もつまり芥の中に掃き出された一人の犠牲者なんですよ。成程僕は誰よりも大村君とは親しいしどんなことでも相談し合って来た。だが、今になっては彼はこの僕に向ってお寺へ行って坐禅をくめと云うのです。彼のそう云う気持は分るけれど、それは芸術家には自殺を意味しますよ。坊主になるなんて。だがまあ宜しいと僕は思う所あって云ったのです。ボードレールも詩の言葉で、おー静謐よ静謐よと憬れました」
けれどそう結びつつ口元に笑いを浮べた彼の顔は、妙に痙攣を起したようにふるえた。
「一種の保護観察なんですのね、思想犯じゃないけど……」
「そうなんですよ」と彼は泣面をかきながらおろおろ声をしぼった。「僕は明後日までには坊主になってお寺へ行かねばならんのです」そこで彼はぶるっとふるえ上り膝を乗り出した。「ところがですね、実に素晴しいことには、東京の作家で僕の親友でもある田中君が京城へ来ているんです。是非会いたいということで先程朝鮮ホテルへ行ったけれど、とても遅かったので奴さんはしびれを切らして、大村君あたりと一緒に出掛けたらしいのです、あまり気の毒なんで僕はこれから捜しに行こうとするところです。何なら紹介して上げましょうか、朝鮮のジョルジュ・サンドとして又僕のリーベとして……」
「…………」詩人は目をつぶって嫣然と笑った。彼女はいよいよ若い大学生と待ち合わせていることをすっかり忘れてしまった。「え有難う、紹介して戴きますわ」
「そうしたら」玄竜はじいっと彼女の笑顔を見つめていたが瞬間、そうだ今晩は久し振りにこの女を連れて帰るんだとひとり肚で定め込み、
「これを聞くと田中君の妹が妬きましょうぜ、へへへ」
「あら、そうでしたの、東京の恋人ってその方のお妹さん? おほほこれは面白いわね」
「そうなんですよ、そうなんですよ」と彼は我意を得たりとばかりいかにも愉快そうに叫んだ。「僕が東京を引き上げる時彼女が追いかけて来ると云って大変だったのです。兎に角田中君も今じゃ大いに芽が出て、もう中堅の作家ですよ。どうでしょう、彼を囲んで僕達が一度集ったら、その時も是非来て下さいね」
「え、それはむろん行きますわ」
「ところで、実はですね、田中君は大村君とは大学の同窓でとても親しい仲なんですよ」と後にぐっと身を反らして急に真剣な表情を作った。が、それには惨めとまでいえるようなほのかな明るい影が浮び上った。「そこで僕は田中君に大村君を口説いて貰おうという訳なんです。つまり芸術家を理解させるんですよ。そうです、これは確かにパリ娘のアンナに会ったこと以上に重大なことです。そしたらきっと僕はお寺へ行かないで済むと思うのです」
「そうですわね、それがいいですわ、それがいいですわ」女流詩人は肩をゆすぶりつつ息もせわしく心からの悦びを現わした。
「ほんとうにそうなればいいですわね」
事実小説家玄竜にしてもそう悪い人間ではなく、性根は至って弱い臆病者で、文学の才能にもいささかは恵まれていた。ただ長い間のどうすることも出来ない窮乏や孤独や絶望が、彼の頭を攪乱してしまった。それに今は朝鮮という特殊な社会が彼を益々混迷にぶち込んだのである。一種の性格破綻から父や兄には勘当され、学業は成らず生活費のあてとてなかった。東京での十五年間の生活というものは、それこそ正しく哀れな野良犬同様だった。殊に悪いことには自分が朝鮮人であることをどう隠そうにも、彼の骨組や面貌がまぎれもなく朝鮮人に出来ているので、下宿へ宿ろうとしても第一が顔、それにぼろぼろのズボンと来ているから、てもなく断られるのである。で、彼はふと神の啓示でも受けたように苦肉の一策として、急に自分は朝鮮貴族の息子でしかも文学的な天才であるばかりか朝鮮文壇では第一流の作家だとふれ廻ることにした。彼はそれで、朝鮮人であるがためにより余計に受けねばならない蔑視や気拙いことをも多少は緩和させ、いくらか暮しの上でも融通をきかせようとする心算である。ところが奇蹟的なことにはその方法が全く功を奏して次々と二三人の女に飼われることが出来た。こうしてとやかく一二年する中にすっかり彼は自分が本当の朝鮮貴族であり又文学の天才であると錯覚を起してしまった。だが文学の道だけはどうにもままならずで悶々としていたが、或る年、女を斬りつけた罪で送還を余儀なくされ、ついに破れかぶれの気持で朝鮮へ引き上げたのである。それからは朝鮮語で奇を衒うような、或は淫靡を極めたような文章を綴って低俗な雑誌へ方々売り込みに歩いた。信玄袋にはいつも原稿を入れて担いで廻り、バーやカフェーを荒しては巡査に捕えられ職を訊かれると、得意になって文士の玄竜だと云い放った。招ばれもしない会に現われては口を開けば、フランス語やドイツ語ラテン語のうろ覚えているだけの単語を出鱈目に喋りちらし、人の前では自分は柔道初段以上だからと胸を張ってみせる。そしていつも東京文壇で自分が如何にも大活躍していたようにだらだら自慢話を並べ立てた。それが恰も今の朝鮮での自分の存在を高めるとでも思っているかのように。万事がこういう調子なので、だんだん世間の人は彼を気違いとして取り合わぬようになったが、そうなればなるほど彼は願ったり叶ったりでいよいよ有頂天になって、真実の天才なればこそ俗人達には容れられぬものだと嘯いた。だが、彼の素質がおいおいと露見するにつれて、とうとう卑俗なジャーナリズムでさえ彼の文章を受けつけなくなり、文化人達は相結束して彼を文化圏内から放逐することにした。こうして身動きが出来なくなったその時から、彼は酒を飲めば柔道のことはもう一切口に出さず、いつの間にか誰に向ってでも貴様こそ監獄にほうり込まれてえのかと、こけおどかしに叫ぶようになったのだ。同時に彼はどんなことでもしおおせる男として皆から怖れられ出した。こういう男にでさえ、苟も時局的な言葉で迫って来る限りびくびくせねばならぬとは、朝鮮の文化人のために何という悲しむべき事であろうか。それにつれて玄竜の心も益々やけに荒び、街で一層暴行や恐喝に猥雑な行為を働き廻るようになったが、今度は巡査にとがめたてられても、けらけらと嗤い僕のことなら大村君に聞けと呶鳴り附けるのだった。
彼がこういうふうに人の前でいつも君附けに呼ぶ大村というのは、実は朝鮮民衆の愛国思想を深めるために編輯される時局雑誌Uの責任者である。内地から渡って来たばかりの元官吏でまだ朝鮮やその文化の事情に疎い彼は、最初に近寄って来た玄竜こそ、彼の言葉の通りに朝鮮文壇を実際に担う小説家であり、又その性格破綻に近いところなどは、いよいよ彼が非凡な芸術家である所以だと頑なに信じ込んだ。こうして絶望の玄竜はわけもなく大村に取り入り重用されるようになったのだ。ところが、好事魔多しとかでそれから間もなく、玄竜は或る至って奇妙な事情からスパイの嫌疑を受け憲兵隊に挙げられたのである。丁度或る麗かな日の午後のこと、彼はいつもの本町通りで一人の年若い妖艶なフランスのアンナと称する女を見かけたのだった。彼は勇躍してボナミとかマドモアゼル、ウイメルシイとか片言を並べつつ近附いて行った。青い瞳の女も中々心得たものでたどたどしい日本語ながら、自分は漫遊に来ていて間誤ついていると云ってやんわり笑った。彼は益々いい気になって方々彼女を連れて歩きながら、道行く人々に聞えよがしに、ボンジュール、トレビアン、ボウギャルソン、ススワルとか知っているだけのフランス語を全部叫んだ。そして態々古本屋へ引張ってはいり、自分のプロフイルの出ている三流雑誌を捜し出してグラビヤの頁を開き、誰であるかを知っているかと得意気に自分の写真を指差した。おーと彼女は驚いたふうをする。そこで彼は悦に入っていきなり人の目を盗んでその写真をちぎり取り、無理矢理に彼女のハンドバッグへ押し込んだ。その後アンナは豆満江国境でスパイとして検挙され、彼は件の写真が彼女の手元から出て来たために、同じく嫌疑を受けて留置された。こうして大変なことになるところを、大村が官庁の力でいろいろと釈明奔走して身柄を貰い下げてくれたので、彼は大村には一世一代の恩義を感ずるようになった訳である。でなくても朝鮮の一般の人々に野良犬同様に見放された現在の彼は、大村にまで捨てられては野垂死するより致し方がなかった。が、今はもう朝鮮にも愛国熱は漸次高まって所期の目的は殆んど達せられつつあるのに、愛国主義をふりかざして社会の公安を妨げ到るところで悪事を働く玄竜を、そのまま用いることは大村の威信にも関ることと云わねばならぬ。その実又玄竜に関する限り、司直当局に対する非難攻撃が甚しく警察でもそろそろ内査を始めたのだった。それで大村は警察に渡すには忍びない気持と持前の信心深さから、お寺へ赴き坐禅修行をして早く謹慎の状でも見せろと命じたのである。事態がこうなってみると、玄竜はその命令に背く訳には行かなくなったのだ。いよいよこの二日の中に出掛けねばならなかった。それ故この際東京の作家であり又大村と同窓でもある田中が来城したことに一切の望みをかけ、自分が自由に足を伸ばし得るように、いろいろと大村を彼から口説いて貰おうとする訳である。だからパリ娘のアンナに会った以上に重大であることはむろんだった。
「僕はこれから田中君を捜しに鐘路裏へ行くのです。さあ一つ出掛けましょうか」
と、玄竜は急に元気になってトーストを一度に二片も口に突っ込みながら尻を上げた。
「あたしも行きますわ、……あ、それいいわよ」
と云って、女流詩人は彼の手から勘定書をもぎ取って立ち上ったが、どうしたのか急に表情が強ばって石のように固くなった。間もなく彼女は少しばかりおずおずし出した。おやっと思って玄竜が振り返って見れば、入口のところに角帽を目深く被った背のひょろっとして高い大学生が蒼くひきつった顔をして突立っていた。そしてじろりと玄竜を睨んだ。その時急に悩しげなスペイン民謡のレコードは止り、人々の視線は一斉にこの三人の方へと向けられていた。文素玉はいきなりそそくさと身をかわして入口の方へ行き、ドアを開け若い大学生を引張るようにして外へ出て行った。玄竜は打ち砕かれたように茫然と立ち尽してそれを眺めた。後の方では皆がきききと笑い合う声が聞える。ところが又三四分もしない中に、彼女は慌しく彼の方へ飛び込んで来て、「あたしの従弟ですの」とせき込みつつ小さく叫んだ。「芝居へ行こうと約束していたのをすっかり忘れていたんですの」
そしてはっと思う間に、
「明日の朝行くわ」
と耳元に囁いて再び飛んで出て行ったのである。
「待て、待て!」
と、後から急に狼狽したように叫びつつ彼は手を振りながら飛び出した。だがもう外は暗い夜で二人の影はどこへ行ったのやら、既に杳として消え失せていた。
三
「くそ忌々しい、畜生! 覚えとけ」
等と、小説家玄竜は肩をすくめたまま何度もぶつぶつ呟きつつ、朝鮮人街で一等賑やかな鐘路通りをさしていかにも浮れたような足取りで歩いて行った。あの女郎奴までこの俺を莫迦にしている、少々ふざけているぞと彼は自分に云った。何だか大事な手中の玉を奪われたような気がしてならなかった。するといつものように彼女の不調和にも長い胴の下に続くいびつに大きなお尻が目の前にちらついて見え、それに向って温かい血潮の擾乱がどくどくと流れる切ない快感を覚えるのだ。彼はひとりでに気がむせんで来てごくりと音を立てて固唾をのんだ。その時ふとどうしたことか、彼は自分の耳元に彼女の囁き声が聞えたように思われたので、はっと驚いて振り向いてみた。けれどむろんそこに文素玉の影もあろう筈がなく、ただ道行く人が一人胡散臭そうに立ち止って彼の姿を眺めていた。くそ忌々しいと彼は再び口に出して呟いた。
白堊建の大きな朝鮮人経営の銀行前を通って、いつの間にか鐘路四辻の方へ近附いて来た。急に辺りは騒々しくなり、人力車は走り自動車は流れ電車はもどかしげに警笛を鳴らしている。百貨店和信と韓青ビルの高層建築を起点として、東大門の方へ向って大通りを挟み立派な建物が海峡のように連なっていた。丁度四つ角に立っている旧世紀遺物の鐘閣の前へ出ると跼っていたおいぼれの乞食達は手をさし伸べ、きたならしい乞食の子供達はどこからともなく稲虫のように群がって来た。今年はめっきり乞食がふえている。彼は物々しく手を振り上げて子供達を追い散らした。韓青ビルの前あたりからは歩道にも夜店が出張っていて人々の流れで雑沓し、売子達の掛声が喧しく響き返っている。丁度その夜店並びの入口のところでは、物見高い連中に囲まれて白い頭巾をくるんだ百姓男が酔いつぶれたらしく手を振りつつ、何かを喉につまった声でしきりに喚いている。一体どうしたのだろうと首を出して覗いてみれば、男の傍には支械が立てられ、そこには大きな桃の花の一杯ついた枝々がのっかっていた。それで支械は花束に埋れた形で、首をうな垂れている花々はいかにもいたいけである。
「わっしあ嬶を貰った年に二人でこの桃の木を植えたんでがす。その嬶が死にやがっただ。その嬶がよ」と百姓は叫んだ。「白米の重湯が食べてえちゅうので地主さんところへ借りに行った間に死にやがっただ。さあ、わっしあ桃の枝をぶった切って担いで来たんでがすぞ、買って下せい、一枝二十銭、多くはいらねえ、二十銭でええ」
山をなす人々は面白そうに顔を見合わせながらげらげらと笑い合った。玄竜は懐手をしたまま人垣を押して中の方へぬっと現われ出た。そこで暫くの間目尻を下げて、いかにも感慨無量といった様子でしげしげ桃の枝を打ち眺めた。何故かしら惻々と胸の中を伝わって来る悲しみを覚える。彼は何かに取り憑かれたようにつかつかと支械の傍へ進んで一枝を取り上げじいっと思いをこめて見上げた。今を満開に咲き誇っている薄紅色の花が二十程もつづらなりに枝をおおうている。
「さあ、旦那買って下せい。わっしあこれをたたき売って酒を飲んで斃ってみせまさあ、え、皆どうして笑うんでがす、買って下せい。笑うでねえ、買って下せい。……へ、これは有難え、有難え」
片方の手でばら銭を捜していた玄竜が白銅貨を二つ三つ掴み出してぽんと投げ出したのだ。百姓は狂喜して頭を地につけ拝んだ。それを尻目に玄竜は黙ったまま桃の枝を肩にかけると人々をかき分けるようにして再び人混みの中へ出て来た。その時彼は自分の恰好からか不意にそれといった脈絡もなしに十字架を負えるキリストを憶い出し、自分にもその殉教者的な悲痛な運命を感じようとした。自分こそ或る意味では朝鮮人の苦悶や悲哀を一上身に背負って立ったような気がせぬでもなかった。成程朝鮮という現実であればこそ、彼のような人間も生れ出、且つ社会の中をのさばり廻ることが許され得たからである。混沌とした朝鮮が僕のような人物を必要として生み出し、そして今になっては役目が尽きると十字架を負わせようとするのだ、彼はそういう自覚に立ち至ると益々悲しみが胸をつき上げて来て、どうっと慟哭したい位だった。けれどそういうことも束の間、歩道一杯の人々が驚いたように皆自分の異様な恰好を眺めているのに気が附くと、寧ろ今度はけろりとしていささか得意にさえなったのである。へっぽこ詩人の女郎奴、貴様がついて来たら本当にこの僕の天外な像が分っただろうに、莫迦な女郎奴と彼は心の中で文素玉を憎々しげに罵った。夜店の前は押すな押すなの込み合いである。先からの乞食の子供達は面白そうに五六名後をついて行った。その中に突然前の方で喧嘩が始まったとみえ騒ぎ出したので、彼は避けるようにして少しばかり戻って来ると、イエス書館の横から折れて薄暗い小路をはいって行った。乞食の子供達はこの時とばかりもう一度彼の傍へまつわりついて来て手を出しながら、
「旦那、恵んで頂戴」
「恵んで頂戴」
と哀れっぽい声を絞った。彼はつい気が滅入ったようになって銅貨をばらばらと五六枚投げ与えた。子供達は奇声を上げ暗がりの中で頭をお互いぶっつけ合いながらもがき出した。玄竜はそれを振り返ってひひひと嗤いかけたが、ふっと涙がこみ上げて慌てて腕を上げてふいた。
裏小路に出ればそこは所謂鐘路裏で、カフェー、バー、立飲屋、おでん屋、麻雀屋、周旋屋、飲食店、旅館等が、目をぴかぴか光らせたり、口を開けたり、尻ごみしたり、地べたにひっつくように蹲んだりしている。ぎーぎーとレコードが騒々しく辺り一面で唸り立て、洋服や白い着物がうろつき廻っている。景気のいい商人や、総督府あたりの朝鮮人雇員、無職で金のある青年、モダンボーイ、そしてカフェー音楽家、バーマルキスト等が、夜はよくこの界隈で気焔を上げるのだった。中には大枚をばらまきに来た金山男もいる。いよいよ目的地へ来たぞと玄竜は考えた。たとえ田中が大村に案内されていないとしても、誰かに連れられてきっとこの界隈へ朝鮮色を満喫するために来ているに違いなかった。成るべくは大村君と一緒でないようにと……彼はこう念願しつつ一つ一つ飲み場へ首を突き入れて調べてみることにした。その後をやはり子供達はにやにや笑いながらついて来る。彼はたとえ自分を尊敬する人がいてどんなに引張ろうとも決して道草は食うまいと固く決心した。それ故カフェー鐘路会館の扉を開けるや誰かがよう玄さんと叫んだ時も、彼はへへへと笑ったまま踵を返し、バー新羅の中を窓を開けて覗いたとき、おい気違い、乞食野郎! と皆から罵声を浴びせられた時も、彼はただ自分が柔道初段以上もあることを思い起すだけでへらへらと笑い去った。或るところはうっかり飛び込んで、朝鮮服に洋装とりどりの女からお花頂戴頂戴と襲われたが、それでも彼は女共のお尻一つ叩かず花を二つ三つ投げてやりながらほうほうの態で逃げ出しただけであるが、このようにその界隈を西から東へと殆んど虱潰しに捜し廻ったけれど、どうしても田中の一行は見当らない。彼はいよいよ焦だたしい気持に追いたてられ、あてどのない憎々しさと憤りをどうすることも出来なかった。
玄竜は再びどこといった目当てもなしに、がに股の足を重そうに引きずりつつ捜し廻った。今度はところどころへ首を突き入れて女達に質ねさえしてみた。が、かれこれ二時間あまりも歩き廻ったけれど一向に埒が明かず、激しく疲れが出、空腹を感ずるばかりだった。とうとう優美館裏あたりの大分淋しいところまでやって来た時は寸歩も足を運ぶことが出来ないまでにくたくたに疲れ、一先ずそこらのとあるきたならしい立飲屋へ潜り込んだのである。埃っぽい明るみの中では、みすぼらしい人々が各々二三人ずつ一団をなして相寄りかたまってがやがや騒ぎ立てつつ盃をかわしていた。玄竜は桃の枝を担いだまま皆の驚きの視線を浴びながら、中央正面の方へのっそり進み出た。前の方に長い板で酒台が据え附けられていて、その向うの方に顔の小綺麗な女がちょこなんと坐っていた。彼は台の上に出してくれる大きな盃を取って、女から薄黄色っぽい薬酒をついで貰うなり一杯ぐっと飲み干した。それは妙にすっぱい味だった。顔を上げて辺りをじろっと一度眺め廻したが誰一人とて知る者はいない。他の人達は彼と視線がかち会うとびっくりしたようにぐっと口を噤んでそっぽを向いた。玄竜はそのため一層不機嫌になり、もそっと動いて行って、傍の方に据えてある網張り棚の中から豚の足を取り出して来るとむしゃむしゃ噛み始めた。それは朝鮮特有の安直な酒場で、茶碗程もある盃一杯に肴までついて唯の五銭で飲めるのだった。彼はあの好きな明けすけの淫らな冗談さえ一言も云う遑もあらばこそ立て続けに何杯もひっかけた。外の方から暖簾の中へひょこひょこ首を出して、彼の出て来る気配をさぐっていた乞食の子供達も、ついにあきらめていつの間にかどこかへ消え失せてしまった。
彼はこんなに飲み始めると耳鳴りがし足が動けなくなるまでぐでんぐでんに酔わねば収まらない性分である。でも彼が泥酔するまでにはこの薬酒なら六十杯は少くとも必要とせねばならなかった。こうして一杯又一杯と盃を重ねる中に、酔いがけだるく全身に廻って来て、次第に胸をしめつけるような悲しみが襲うて来た。今夜中にはどうしても田中を掴まえねばならないのだ。そうだ、ここからすっかり酔いつぶれて出てもう一度朝鮮ホテルへ押し掛けて行くんだ。そして田中に助けを求めれば凡ては巧く運ぶに違いない。そう思うと何だか自分がお寺へ預けられるということが、急に哀れな喜劇のようにさえ思われてならなかった。自分もあの瓢のようなぐりぐり坊主になって袈裟を身にまとい、鼻汁をよく啜り上げる正覚禿坊主の前で、毎日毎晩数珠を首にかけて神妙に禅をくまねばならぬとは。彼はこの悲痛さを打消すように妙に喉にからんだ甲高い声を出して一人でに笑ってみた。だが彼は自分の笑い声にびっくりして慌てて肩にかけていた桃の枝を胸に抱きしめじっと息をころした。暫くそうしていると気はしずしずととおのいて行き体じゅうがとろけ込むようで、ふっと幽かな光芒を帯びていろいろな女の幻影がとりとめもなくちらちら動いて見える。×××××(五字欠)メロン頬の女。その陰で女流詩人がにっと笑っている。口を心持ちすぼめて明日の朝行くわと囁くのさえ聞えるようである。そうだ、今夜はどうしてもあのじめじめした下宿の穴部屋へ戻って彼女を待たねば……。すると彼女の水で洗ったような××××××××(八字欠)が空間に浮び上り、それがだんだんと腕をひろげて熱いむせるような息を吹きかけつつ自分の体をおそうて来るような錯覚が起きた。それにしても田中は一体どこにいるのであろう。彼はこのように現実と夢幻の間を右往左往している中に、今度は又何とはなしに田中の妹の明子のことを思い起した。田中もその頃は一介の文学青年として苦労していたが、一緒にいる妹の方は女子大に通っている美しい娘さんだった。当時彼はありったけの熱情を傾けて彼女を愛しているつもりだったが、田中にしろ彼女にしろ自分にいい感情を持っていないばかりか軽蔑さえしていたのだ。よく彼は一里もある明子の所まで歩いて行っては、いろいろと大胆さの限りを尽してみたが、彼女は彼の図々しい程異常な情熱を莫迦にするだけだった。朝鮮の貴族で天才だということも彼女にはちっとも効目がなかった。こういうふうに毎日彼女に素気なくされて帰る道すがら、前々から知り合いの女給の宿へ行っては泊っていた。彼がこの女給を斬りつけたのは、いよいよ意を決し田中のいない中を見計って明子を襲うたのがしくじったその晩の帰りのことだった。そのために内地から追放されて朝鮮に帰り、どうやら渡りをつけて娯楽雑誌などに筆を取るようになったが、彼は空想を逞しゅうしてこの若い恋の経験を神秘化し、明子という美貌の純粋な娘に熱烈な恋を寄せられたというふうなことを、バルカンの志士インサローフとロシヤの乙女エレーナとの恋物語(ツルゲーネフの作品『その前夜』より)まがいにいつも方々へ書き連ねたものである。それで人々もこれだけはまさか嘘ではあるまいと信じ、自分もそれを幾度も書いている中に、ほんとうのことのように思い違いさえして今は美しい思い出となった。あーあの明子は今どうしているのだろう。早く田中に会って訊いてみたい。凡てが今になっては自分を悲しませる種ばかりではないか。
頭が急にくらくらして来て、何か突飛なことでもしおおせ兼ねない気持である。不意に又先程の百姓の絶望的な喚き声が聞えて来るようである。自分こそあの百姓のように救いのない絶望のどん底へ突き落されてもがいている人間に違いない。淫乱な言葉もとうに書き尽し、法螺ももう誰一人とて信用しはしない。僅かばかり知っているドイツ語の単語も既に何度となく繰り返して書いたし、十三箇のうろ覚えのラテン語も十三回以上に喋ったし、フランス語は尚更のこと、文章の終りには必ずFINという字をつけたのに、もう今は文章の註文も来なくなったのでそれもおさらばになった。柔道初段以上というおどかしもどうやら効目がなく二段や三段はおろか物騒な拳闘選手までうようよしている。家もない、妻もない、子もない、金もない。最後に彼が拠りどころとして思い附いたのは、愛国主義者という美名のもとに隠れて凡てに向って復讎を計るばかりか、勢威のある大村にかばわれることだったのだ。だが朝鮮の文人達の間にも澎湃として時局認識運動が高まり、鮮かに水煙りを飛ばして彼等が自分を追い越し去ったのだ。それを思えば他の連中が歯ぎしりする程憎くてならない。今では貴様を監獄にぶち込むぞという恫喝も出来なくなってしまった。彼に残されているものは方々ゆすり歩いて文なしでも酒の飲める口だけである。それが怪しからんというので、大村はこの僕に寺へ行けと命じているではないか。もう大村にまで見捨てられたからにはどこへも行き所のない人間なのだ。彼は使うだけ使って今になり事新しく自分にお寺へ行けと命ずる大村が憎くてさえならなかった。だがもうほとほと気力もつきてごとりと桃の枝を床の上に落し、彼は目頭に涙さえ浮べながら更に沈んで盃を重ね始めた。
四
凡そ十時頃にでもなったのであろうか、玄竜はへべれけに酔い潰れてしまった。お客は始終入れかわり立ちかわり騒々しかったが、ふと彼の後の方から又新しい客のはいってくる気配がして、歯切れのいい内地語が聞えた。
「至極悠長な朝鮮人にしては一寸面白いせかせかした所ですよ」
おや聞いた様な声だぞと思って、玄竜はじっと聞き耳をたてた。
「まあ内地で云えば大きくした焼鳥屋とでも云いますかな。あのくだらない鮮人連中から解放されたすがすがしい気持で、一つ朝鮮の酒でも嘗めてみませんか。全く大変でしたね」
新しくはいって来た男達二人は玄竜の傍へ立ち並んだ。こう云われている男は今まで彼等の後をぞろぞろとついて廻りながら、田中に先生先生とぺこぺこしていた朝鮮人の事大的な文学くずれ達のことに違いなかった。玄竜は警戒するように首をちぢかめた。
「それでもまあ面白いじゃないですか。あんな人達と会って話してみるのも……実際大陸の気分が出ましてね」
確かにこの勿体振っただみ声は田中に違いないぞと、玄竜ははっと耳を欹てた。
「おや、あなたはそれを本気で云うんですか」
と、案内役の男は大分不服らしげに叫んだ。「あなたは妙なところに又感心したもんですな」
「いや、それ程でもないんですけれど……だが実際にあの人達は自分で云っているように、文壇や劇壇等で相当活躍しているんでしょうかね」
「そうですよ、あの連中が一流どころですよ」と、せっかちになって先の男は事実を誣るのだった。「今度鮮人連中の作品が内地語で翻訳されたのを読んで私は先ず安心しましたね。すっかり安心しましたよ。それ位なら私のような素人でも書けますよ。朝鮮の地方的な文化もやはりここへ来ているわれわれの手で築き上げるべきもんですな。ところでさあ、一つどうです」
と盃を取り上げた。
やっとその時になって玄竜は横合いの方から臆病そうに首を突き出し、慌てたように朦朧とした目をこすって見据え、口をばっくりと開けた。実にそれはまぎれもなく東京の田中が、ある官立専門学校教授の角井に案内されていたのである。盃を口に持って行っていた彼等二人も、玄竜に気が附いてびっくりした。
「やあ田中、田中!」と玄竜は叫びつつ大手を拡げて、すぐ傍のひょろひょろした体へ抱き附いてしまった。他の客や女はみな驚いて目を瞠りこの異様な光景に魂消た。内地人をそんなふうにして果していいのだろうかと気味悪くさえ思うのである。田中は一目でそれが先程大村や角井と三人で噂し合った玄竜であることを知ったが、あまりにも意外な場所での邂逅と突拍子もない抱擁に面喰らってしまった。何よりも息がつまりそうで苦しかった。玄竜は彼を抱いたまま狂気のようにぐるぐる廻るのである。
「怪しからん、怪しからん、僕は恨んだぞ、大いに恨んだよ。黙って来るってそんな法があるかよ」
「済まん、済まん」
と、田中は救いを求めるようにかすかな声で呻いた。
「さあ、そこで一杯やろう、盃を取ってくれ!」玄竜は素早く飛びのき盃を取り上げた。
「おう田中君、僕は君が朝鮮に寄ってくれたので感謝しているぞ、本当に嬉しいぞ!」田中が大村と一緒でないことが尚のことうれしいに違いなかった。彼は再び殆んど抱き附くばかりの恰好で、「やっぱり君はやって来たな。ようくこの新しい朝鮮を観察してくれよ。頼んだぞう! さあ、一杯ぐっとやってくれ!」
そしてついはめを外したあまり、
「さあ、角井さん、あんたも大いに飲んで下さい!」
と、彼の背中さえ痛い程叩いた。角井は玄竜とはU誌の会で一二度会ったきりで、そうこんな男に馴れ馴れしくされては自分の沽券に関ると考えるのだった。もともと彼は大学の法科を出ると共に朝鮮くんだりへ来て真直ぐ教授にもなれたのだが、此頃は芸術分野の会にまでのさばり出るなど内地人の玄竜ともいうべき存在だった。朝鮮に出稼ぎ根性で渡って来た一部の学者輩の通弊の如く、彼も亦口では内鮮同仁(日本帝国主義の植民地政策の一つで、朝鮮民族を日本人に同化させるためのスローガン)を唱えながらも、自分は撰ばれた者として民族的に生活的に人一倍下司っぽい優越感を持っている。だがただ一つ芸術分野の会合等に出ると、自分が朝鮮の文人達のように芸術的な仕事を何もし得ないことにひけ目を感じ、弾ね返っては彼等を憎々しくさえ思っているのだ。それで特に朝鮮の文人達を莫迦にしようとこれ努め、内地から誰か芸術家でも来ると玄竜にひけをとらぬ程の熱情で授業さえ休んで出掛け、加俸の分だけを惜しいともせずに方々引張って酒を飲ませながら、事毎につけて朝鮮人の悪口を学問的な言葉で並べたて、口癖のように、あ、あれを見て安心した等と呟く。今夜は殊にこういう最も卑しむべき文人の玄竜に会ったので、いよいよ彼の自尊心は増長したのである。それでいかにも物々しく肩を聳かしてくんと吠えながら背を向けてしまった。だが玄竜もさる者それには振り向きもしないで、依然田中を掴まえたまま喚きたてていた。
「おう田中、僕はな君を捜し廻ってすっかり草臥れ、さんざん恨みながら飲んでいた所なんだぞ。よう会えたな。全く六年振りじゃねえか、そうだ、妹の明子さんは元気か? 僕は今も明子さんのことを忘れていやしないぞ」
気の弱い田中は彼の口まかせに喋りたてる言葉にいい加減うんうんと肯きつつ、口を窄めて薬酒を少しばかり嘗めるふりをした。
角井もひとりで丁度二度目の盃を口に持って行くところだったが、明子の話が出て来たので吹き出してしまった。そしてそれだけでは足りないと思ったのかはははと声を出して哄笑をした。先程玄竜の噂をしている中に、彼は田中からこの男が彼の妹に無茶をして困ったということを聞かされたからである。玄竜はいつも田中のいない頃を見計って彼女を訪ねて来ては、田中のどてらに着替えいかにも主人顔で机に頑張っていて、当の彼が帰れば恰でお客でも迎えるような調子でこれは珍しいね等と云っていたという話だった。それも或る日の夕方のこと、田中は街のなかでひょっこり玄竜に会い、大変なことがあるからと持金をすっかりまき上げられた。そして後から帰ってみれば、玄竜は林檎やシュークリームをどっさり買って来て妹に無理矢理に食べさせながら、きききと悦んでいたのだ。角井はそれを思い出したのである。――だが今や玄竜は田中に会えたことを思うともう凡ての悲しみも苦しみも霧散し、ひとりでに嬉しくなっていよいよ多弁になっていた。殊に傍には角井もおり、今まで筆を取る度に威張り散らした手前もあるので、思い切って大きく出て来た。
「帰ったらS先生にも宜しく云ってくれ、奴は朝鮮に帰ってからも中々やりおりますとね」
或は、
「T先生は元気かね」
それから、
「R君はどうしている?」
「D君の奥さんは?」
けれど生憎、田中はSやTとも親しくしているような小説家ではなかったので、しどろもどろにばつを合わせた。何しろ彼は此頃スランプの中にいて書けないので、流行の満洲にでも行ってうろついて来れば違ったレッテルもついて新分野の仕事が出来るかも知れないと出掛けたまでだった。それでも発つ時に或る雑誌から朝鮮の知識階級に関する文章を求められているため、彼は今先まで自分に先生先生と馴れ馴れしくついて廻っていた低級な文学青年達を興味深く観察し、彼等と別れると大村や角井からいろいろ参考意見を聞いた所だった。殊に角井の至って人間学的な説明に依れば、朝鮮の青年というものは悉く臆病でひがみ根性があり、おまけに図々しくしかも党派心の強い種属ということである。丁度そのいい標本が田中も東京から知っている玄竜だと述べていた。それ故東京の或る知名な作家尾形が京城へ立ち寄った際、大村の肝煎りで朝鮮の幾人かの文人達と一席を設けたところ、その席上で三十分もせぬ中に彼が玄竜の中に朝鮮人全部を見てとったのは、さすがに鋭い芸術家の烱眼だと讃嘆して附け加えた。尾形がここに朝鮮人ありと叫びながら玄竜を指差した時、実のこと、朝鮮の文人達は全く唖然とせざるを得なかった。が、当の玄竜はいかにも得意そうににたにたと悦に入っていたのである。田中は僅か一両日の滞在でしかも酒にばかり追い廻されて観察どころではないが、尾形に負けない程辛辣独特な観方をして書き送らねばならないと決心していた矢先なので、寧ろ代表的な朝鮮人と角井から太鼓判を捺された玄竜にひょっくり再び会ったことを幾らかは悦んだ。彼は角井の悪意に満ちた言葉に些かも疑いを挟まなかった。いよいよ自分の直観の鋭さを示す時が来たと躍起になって、彼は今度は朝鮮民族を検分するかのような物腰で自分から先に口を切った。
「君は帰ってからは朝鮮語で小説を書いていたんだってね」
「そうだよ、そうなんだよ」と玄竜は待っていたとばかり有頂天になって叫んだ。「僕は朝鮮に帰るなり素晴しい作品を矢継早に出したんだ。始めは野郎たち朝鮮にも天才のランボウが現われたと云って、目を丸くしやがった。だがだんだんと僕の読者がふえ地位も高まって来ると、文壇の奴等は嫉妬して葬ろうとさえしたんだ。大体君も見れば分る通り朝鮮人ちゅうのは仕様がねえんだ。いいか。狡くてそれに臆病なんだから党派を作って人が偉くなろうとすると突き落すんだ」その時角井はそれごらんと云わぬばかりに田中に向って顔をしゃくってみせた。田中は肯いた。
「奴等は僕が東京文壇で皆の注目をひいて活躍していたことさえ知らないんだよ」そしてちらっと角井の方を偸み見て、「無知だよ、全く無知だよ!」
内地人と向い合った時には一種の卑屈さから朝鮮人の悪口をだらだらと述べずにはおれない、そうして始めて又自分も内地人と同等に物が云えるのだと信じ切っている彼である。いよいよ玄竜は火のような熱情に燃えて激しい息づかいをしながら叫んだ。
「僕はこういう度し難い民族性を考えると悲しくてならないんだ、田中、おう君、僕の気持を分ってくれるか!」
彼は声を出してよっぽど泣こうかと思ったが、ただ手で顔をおおうてしゃくり上げただけである。田中はすっかり感動して、
「分るとも、分るとも」
と共に泣く気持になり、やはり朝鮮にも来てよかったと思うのだった。内地にくすぶっていては島国文学しか出来ないと云うのは全くだ。ここに大陸の人々の苦しむ姿がある。箸にも棒にもかからないような男だった玄竜でさえ、もっと大きな本質的なもののために全身をゆすぶって悩んでいるではないか。そうだ、これこそ朝鮮の知識階級の自己反省として内地に報らせよう。尾形に俺の目が負けてはなるものかと力みつつ沁々歓びを感じた。支那人は分らんと云う連中は愚の骨頂だ。朝鮮人を僅か二日で分ったこの調子でなら、俺は四日位で充分分ってみせるぞ、とも心の中で叫んだ。兎も角それのためにはいきおい玄竜を朝鮮の代表的なインテリにして書かねばなるまいとまで、頭でちゃんと構想をねっていた。が、角井にしては玄竜のことが滑稽でならないので、とうとう凱歌を上げたい気持になって意味ありげに彼の方をじろりと見やってから、
「莫迦に大村君は遅いですな、一人で帰ったのでしょうかな」
と田中に向って云った。彼は玄竜が大村を雷のように怖れていることを知っているからである。
「え、大村君?」果して玄竜は一時に酔いがさめたように目を大きくしてぐっと体を起した。「大村君、大村君と一緒だったんですか?」
「うん、そこらで何か買物をすると云っていたがね」
怪訝そうな顔をしてから答える田中の話を聞いて、あ、これはいけないと慌てて、
「そうなんだ」と訳の分らぬことを叫んだ。「だから大村君と力を合わせて、朝鮮民族を改良するために努力しているんだ。問題は簡単なんだ。朝鮮人悉くが今までのような固陋な思想からぬけ出て、東亜の新事態を確認し、そしてひとえに大和魂の洗礼を受けることなんだ。それがため僕は人から気違いとまで云われながらも、大村君のU誌にいつもセンセイショナルな論文を書き立てたんだ」そこで急に声をひそめて首を突き出し、
「大村君は僕のことを何とも云わなかったのかい?」と訊いた。
「いや別に……」
と田中はお茶をにごしたが、玄竜は又急にもとのような調子にかわって、
「大村君は実に当代稀にみる立派な奴だよ。だから僕など民間にいながら率先して全力を尽し助けているんだ。だが惜しいかな、好漢大村君も芸術家が分っていないんだよ、真の芸術家というのが……だから田中、君のような作家が大いに啓蒙してやるべきだと思うんだよ。ハムレットでもあるまいに、僕にお寺へ行けと無茶を云うんだから愉快なんだよ。それがね、尼寺へならともかく禿坊主のところへなんだよ。ねえ、僕がオフェリヤかよ? 僕はこう見えても憚り様ながら頭はしっかりしているんだ!」
角井はいかにも憐れむように田中に嗤ってみせつつ、すっぽらかして出て行こうというふうに、その洋服の裾を引張った。ところが玄竜が妙に喉にからんだ声を張り上げて強がりを云っている時、当の大村が悠然と入口の方からはいって来た。見るからに四十がらみの堂々とした立派な紳士である。玄竜はすっかりうろたえて、へーと笑いながら首筋に手をやるとぺこんと頭を下げた。角井は傍で意地悪い声を出してけけけと突然嗤うのだった。大村はここに玄竜がいるのを見て急に不機嫌になって呶鳴った。
「どうしたんだ、君は又こんな所へ来てくだをまいているのか」
「へー大村さん、へ、どうも」と玄竜は纏わりつきながら腰をかがめた。「……実はそのう、田中君を一日中捜し廻ったんですよ。それで腹ぺこになったもんですから……つい、へ」
「おい、どうしたんだ、お寺には? ぐずぐずしないで一日も早く行くんだ!」
「はあ」と畏って玄竜はばつ悪そうにもじもじするのだ。「それはもうよく分っているんです」
大村は角井や田中ににやりと目配せをしてみせ、それから遠来の客もあることなので自分が朝鮮にいて如何に朝鮮人のためを思っているかを身をもって示さねばならぬと考えた。
「早く謹慎の状をみせるんだ! 警察の手に君を渡すに忍びない気持があるからこそ、立派な和尚さんの所へ行って頭を直して来いと云うのじゃ。要するに君のような人間たちの魂を引き上げるためなんじゃ。煩悩を断つんだぞ、煩悩を」
「はあ、だから僕も……」
「分ったか、宜しい」そこで得意げに一度肩を張った。客達は皆目をきょとんとさせてこの光景を眺めていたが、さすがに田中は感慨無量そうに目をつぶったまま聞いていた。
「今はどういう時局だと思う。はっきり時局を認識しなくてはいかん。酒場を飲み倒したり、女を強奪したり、人を恐喝するなどもっての外じゃ。君は内鮮一体内鮮一体と気違いのように叫び廻るけれど、朝鮮人は誰一人君を相手にしないそうじゃないか。もう少し反省するんだ。まともな人間に帰れと云うのじゃ。分ったか、わしが君を応援することにつけ込んで、人の好意を利用するなんて絶対に許されん。莫迦奴! そんなに恩知らずだとはわしは始めて分った!」それから自分の語調に感動しついには興奮してしまった。「全く恩知らずの悪い奴め! まだ君の悪いことが分らんのか。内鮮一体ちゅうのは君のような人間の魂まで引上げて内地人同様にしてやることなんだぞ」
「それはそうです、だから僕は人に気違いとまで云われる程の熱情でそれを主張して来たんです。そうですとも、実際男分の日本が女分の朝鮮に手を伸して仲よく結婚しようと云うのにその手に唾をひっかける理由はないですからね。一つの体になることによって始めて朝鮮民族も救われるんです。僕は感激しているあまり朝鮮人に誤解さえ受けているのです。朝鮮人ちゅうのは一体に猜疑深い劣等民族ですから」
「それは待った」と大村は手を上げて思い深げに差し止めた。「朝鮮人の君達はあまりに自虐性にかかっている。わしの周囲にいる朝鮮人は皆自分の民族の悪口ばかり云って来るがそれが先ず第一いかんことじゃ。分ったか。もちろん反省し自分達の悪い点をなおすことは肝腎じゃ。だが自分を大事にしなくちゃいかん。大事に。それが出来ないのが、他の民族に劣る点じゃ。内地人を御覧! 内地人は決してそんなことはない」
「そうですよ、だってそうじゃないですか」と玄竜は慌てふためきつつ何の前後脈絡もないことを叫び始めた。彼は自分が何時か書いたことのある、至って学術的な文句を先から思い出してそれで頭が一杯だったのである。「少くとも地理的にみても、考古学的にみても、それから人類学的にみても、即ちアントロポロジー的にみても、生物学的にみても……」
こうしきりに並べたてる時、角井ははたと学者的な良心に突き当ったので、
「それは君、アントロポロジーじゃなくてアントロポロギーだよ」と訂正した。
「そうですよ、そのアントロポロギー的にみても、又フィロロギー的にみても日本と朝鮮は男と女の相違しかないんです……」
大村は彼のこのペダンチックな慌て方がおかしくてひとりでにやにや嗤っていたが、ふとそれを見た玄竜はもう大村が自分の熱情に気をよくし直したのに違いないと考えたので、いきなり全身をぐっと前に乗り出して、
「ところが大村さん」と叫んだ。「田中君とは僕はかけがえのない親友なんですよ」
だが大村は云うだけ云ったというような調子で、くるりと田中や角井の方へ向き直って云った。
「さあ、もうそろそろ引上げましょうかな。大抵どんなものか見当がついたでしょうな」
「ああ大村さん、もうお帰りになるんですか」
と玄竜はびっくりして、急にばね仕掛けにでも弾かれたように大村の腕へ獅噛附くように飛び出した。が、そのとたんに落ちていた桃の枝に足元がひっかかったので、彼は咄嗟にそれをすくい上げて抱え込みながら喘いだ。
「大村さん、大村さん!」
「どうしたんだね、それは又」と大村は不審そうに体を反らしてじっと見つめたかと思うと、「そんな様をして又歩いているのか、君のことはもうわしは知らん!」
「大村さん、大村さん」玄竜は急にへなへなに腰がくだけて悲しげに叫んだ。「あまりに花がいたいけないので街で百姓から買って来たまでなんです」その時自分の飲み代まで角井が払いをすましている様子なのを見て、彼はきまり悪くなったのか、慌しく田中の方へ廻って来て袖を引張りつつせき込みながら、
「田中君、田中君、実は君に折り入っての話があるんだよ」
と哀願するように呻いた。
「もっとつき合ってくれな、もっと」
「ほう、これはいい花だね」
と、田中はまぎらわせる様にしどろもどろに呟いた。そこで玄竜は急に勝ち誇った様に元気を出して桃の枝を肩に担ぎあげるや、
「そうだろう、いい花だろう、桃の花だよう、桃の花なんだ」と、声高に銅鑼声を上げつつ、恰で兵隊ごっこをする子供のように先頭を切って出て行った。やはり自分もこの偉方達にくっついて一緒に歩き廻りたくもあったのである。大村や角井と田中は後から仕方なさそうに嗤いながらぞろぞろと出て来た。蒼然とした月がぼっかり空にかかっているけれど、小路は相も変らず薄暗かった。彼は少しくおどけて桃の枝を担いだまま体を揺りながら二間程進軍して行ったが、突然立ち止って胸を張り空を見上げ不意に桃の枝を股の下に引きずり込んで乗っかるようになったかと思うと、天に合図するかの如く手を振り上げて一度けらけら笑った。他の三人は知らぬ振りをして彼の横をすごすごと過ぎて行く。彼は慌てて声高らかに叫んで曰くに、
「僕は天に上るんだ、天に上るんだ、玄竜が桃の花に乗って天に上るんだ!」
そこで恰も木馬に乗った勇士のようにすっすっと彼等の傍を突き進んで行った。意想天外なこの神秘主義者を見てくれといわぬばかりに。花々が無慙に首を折られ花びらをよごして所々に落ち散らばった。が、ふと思い出したように振り返って見ると、田中が一人暗がりの芥溜に小便を垂らしている。それで玄竜はこの時だとばかりその傍へ飛んで戻るや息をはあはあ切らしつつ、「田中君」と喉に詰った声で囁いた。「大村君に僕のことを頼んだぜ。お寺へ行かぬようにしてくれ、お寺へ」
その声があまりにも絶望的な悲しみにうちふるえていたので、驚いて田中は玄竜の顔を見つめた。ぞっとするようにひきつって見える形相が急に崩れて、気味悪い笑顔が浮んだ。それから彼の片方の手が自分の肩を卑屈そうに打って来た。
「あれはどうも官僚だからへいへい云わないと悦ばんのだよ。芸術家というのも分っていないんだよ……明日ホテルに行くぜ」
と云い捨てると、再びこれ見よがしに桃の枝に跨がって引きずりつつ天を仰いで喚き始めた。
「玄竜が天に上るんだ、天に上るんだ!」
その際に大村と角井は田中を横小路の方へ引張って大通りに出ると、自動車を止めるために手を挙げた。小路では益々いい気になった玄竜の喚き声が続いていた。
五
とうとう天には上れなかったのだ。翌朝彼はやはりいつものように穴部屋の中で、苦しそうに悲鳴を上げると共に目を覚した。誰かに縄で首をしめられる悪夢にとりつかれたのである。体は汗びっしょりだった。何しろ体を動かすのが怖ろしいようで、再び目をつぶり息ばかり激しく喘いだ。本当に首の方は大丈夫なのだろうかとわくわくふるえつつさわってみようとして、手を持って行こうとしたとたんに、何かごついものに手先がふれたのでびっくりした。本当だなと思い、目をつぶったままじっと息をころした。全く祈るような気持になって、今度は憚るようにそうっと反対の方の手を出して用心深そうに首筋の方へ近づけようとした。おや、そうでもないらしいぞと思う矢先に何かが又指先にふれてぎょっとし、そのまま仏像のように固くなった。ものの二三分もしたであろうか、やっとこさ心を落着けて、それは一体何だろうかともう一度つついてみようとした。気のせいか今度は触れたものが少しばかり揺れたようである。何だかおかしいぞと思って二つの指で挟んでみて、おやおやと引きずられるままにそれをまさぐっていたかと思うと、
「なあんだ!」とあきれ返ったように叫びながら、彼は首筋の所へおいかぶさっているものを慌てて払いのけるのと同時にはね起きた。それはがさがさと物音をたてて吹っ飛び温突の上で揺れている。他ならぬ、泥まみれになった桃の枝だったのだ。彼はふーと大きく息を吐き出し手で首筋の汗をふいていたが、急に気でもふれたようにけらけらと笑った。が、瀬戸物でもこわれたような自分の声までちっとも変っていないので、彼はいよいよもう大丈夫だと胸を撫で下した。
むさくるしい部屋の中が尚薄暗いところからすれば、まだ朝は早いようである。一日中これっぽっちも陽の当らない穴ぐらのような所ではあるが、でも彼には紙張障子の明るさ加減が時計のかわりになっていた。裏の方に続いた台所の土間では、老婆が今日も亭主と喧嘩をしているらしく何かを突慳貧に喚きたてながら焚口に火をくべていた。土間に一杯たちこめた煙が温突紙のやぶけたところや、障子の穴、壁の割れ目等からもやもやと侵入して来る。彼は息がむせるようで二三度苦しそうに咳をして、相貌を険しく歪めたまま不機嫌らしげにじいっと桃の枝を見つめた。もう花はすっかりなくなり枝々の先も折れ、見るかげもなく泥によごれている。触らぬ神に崇りなしとどんな男からも怖れられた玄竜が、それしきの夢にこれは又何ごとだと思えば急に忌々しくもなって来た。惨めな残骸を曝している桃の枝が今の自分の姿とも思われるのだ。すると昨夜の花売り百姓の哀れな像が大写しで現われ、それが両手を振りながら絶望的に喚いている声が聞えて来る。
「どうして皆笑うんでがす、笑うでねえ、わっしあ斃っちまうんだ。笑うでねえ!」
部屋の中は恰で煙幕をはられたようである。玄竜はこういう絶望的な声からのがれようとして、急に腕の間に頭を抱えて耳をふさいだ。そしてごろっとその場に倒れ身悶えした。そうだ、僕こそいよいよ斃ってやるぞ! 鐘路四辻の真中で自動車と電車の間に挟まって爆弾のようにはね散って死んでやるぞ! 事実彼は昨夜から自分の死ばかりを考えているのだった。死ぬには交通自殺に限る。大通りの真中でむごたらしく死んでやってこそ、最上最後の復讎が出来ると思っているのだ。それで僕も以って瞑するぞ。するとその時部屋の中は真暗くなり、天井といわず壁といわず温突の底といわず方々から、自分の残骸を嘲笑う群衆の嗤い声がわっははと湧き上った。彼はたえかねて追い散らすようにはね起きて、
「僕は死にやしない、死にやしないぞ」と悪魔のように叫んだ。激しく格闘でもするかの如く両手をめちゃくちゃに振り廻しつつ慌てふためいた。もう煙で目はくらみ息さえ苦しい。彼はついに正気の沙汰ではなくぐるぐると温突の上を這い廻り出したが、膝頭ががたがたふるえる。わっはは、わっははという声々は行手を塞ぎ、又方々から赤い焔がめらめらと燃え上って迫り来る。幻影に襲われたのだ。いよいよ彼は恐怖につきぬかれて何かを叫び叫びつつ出口を求めてあがき廻った。老婆はこの気違い男は又どうしたのだろうかと戸口の方へやって来てぶるぶるふるえ出す。だが、丁度うまく彼の逃げ惑う体が障子戸にのしかかったので、いきなり明るみの地べたへ投げ出された。老婆はきゃっと叫んで飛びのいた。少しは息使いも苦しくなくなり、暫く倒れている中に怖ろしい幻覚も収まって、彼はただ放心状態に大きな目だけをぐりぐりさせている。空には激しく雲が流れていた。その時約束通りに女流詩人文素玉が爽かないでたちで現われたのである。彼女はその光景を見て驚いて立ち止ったが、直ぐ、大げさに手を拍ち腰をゆすぶってきゃあきゃあと笑いこけてから、
「おやおや、どうなさいましたの」
と駆け寄って来た。が、玄竜は気でもふれたようにただじろじろと彼女を物珍しそうに見上げただけである。老婆は魂消たと云わぬばかりにぶつくさ呟きつつ台所の方へ消え失せた。文素玉はひとりで当惑してしまったが、やっと気を立て直し渾身の力をふりしぼって彼を抱き起した。彼は昨夜酔いつぶれて帰ったなり寝床へ俯伏せになっておーおーと泣く中に寝附いていたので、洋服着のままであった。詩人は彼の洋服についた埃をはたいてやりながら、「一体どうしたというんですの」と云った。「ええ、玄竜さん、今日は又何かの霊感でも得たようね。早く行きましょうよ、もう直ぐ時間になりますのよ」
玄竜は痴者のように坐って気味悪げににたにた笑ってばかりいたが、その時ほんの少しの意識のかけらでも閃いたのであろうか、怪訝そうに首を長くして質ねた。
「何が?」
「おやまあ」彼女は玄竜の顔附にびっくりして後ずさってもじもじした。「……今日は祭日じゃありませんの、神社へ行きますのよ」
「神社?」
彼は何か六カ敷いことでも思い出すように問い返した。
「……そうよ」
すると玄竜は急にどうしたことかけっけっと笑い出した。神社という言葉が彼には突然忌々しく思われたのだ。神社の神は内地人の神であると誰も拝みに行かなかった頃、率先して内地人の群に投じ社頭にぬかずいた当初の彼は真に重大な人物で後光さえさしいろいろな役目もあった。けれど今はもうそうではないのである。寧ろ有象無象神社へ神社へと雲のように押しかけて行く朝鮮人達が憎くてならない位だった。文素玉は身の毛もよだつようにぞっとして身をすくめたと思うと、
「行って来ますわ」
とかすかに一言云い捨ててほうほうの態で逃げ出した。それを見て玄竜は気味よげにけらけらと嗤ったが、つと驚いたように立ち上った。空は益々鬱陶しくなり雲が北の方へ北の方へと押し寄せて行く。咄嗟に彼は文素玉の温かくしめっぽい肢体に対する慾情にかられ、これは今こそ掴まえねばならぬぞと考えたのだ。その足で彼は慌てて崩れかかりそうなくぐり門を抜けて庭を飛び出した。じめじめした路地に家々は芥箱のようにいがみ合い、下水には灰やきたないものを捨てたり流したりしているので、悪臭がむんむんとむれ上り、激しい風に灰や埃が吹き飛んでいた。小路を抜けて遠くの方へ蒼惶と逃げて行く女流詩人の姿がひらひらと靡いて見える。玄竜はけらけら笑いながらがに股を懸命に泳がせて意地悪く追いかけ始めた。逃げ足だっている彼女は一度振り返って見たとたんに、両手を振り振りやって来る玄竜に一層魂消て悲鳴を上げんばかりになりつつ走って行った。彼はだんだんと追いつくようになるにつれ、益々面白くなって何かを叫んだり喚いたりさえした。土壁の傍で土遊びをしていた二三の子供達が手を叩きながらはやしたてた。が、やっとのことで転げるように文素玉は路地をぬけて黄金大通りへ逃げ出した。丁度その時だった。玄竜が最後の路地を曲ろうとした瞬間に、突然大通りの方から喇叭の音が嚠喨と響いて来た。玄竜はぎくりとして立ち止ったかと思うと、急にどうしたことかぶるぶると体をふるわせ始めたのだ。次の瞬間自分の方から逃げ隠れるように傍の家の煙突の後ろにぴったりと体をすりつけて、息をころし目を爛々と光らして大通りの方を睨んだ。楽隊を先頭に立てた長い行列が神社の方へ向って行進している。何だかそれが自分を包囲し迫って来そうに思われるのだった。ゲートルを巻き附けた中学生や専門学校の生徒達が行けども行けども続き、後の方には国防服を着けた先生やその他新聞雑誌の人や顔見知りの文人達がぞろぞろとついて行く。
行列が通り過ぎてしまうと彼は又急に慌てて出口まで飛び出した。物陰に息をひそめてどんよりとした目で眺めれば、それはもうひっそりとして遠くに消えかかっている。もはやどこか行列の中へでもまぎれ込んだらしく姿を消した女流詩人のことは忘れ去って、玄竜は行列の進んで行った方向とは反対の方へ、誰かかに追われてでもいるかのように逃げて行った。頭の中が砂を一杯ぶち込まれたようにくらくらと混乱しているのだ。時々ホテル、お寺という想念が雲母の如くぎらぎらと光を帯びて正面に塞がるけれど、立ち所に又激しい砂風におおいまくられてしまう。何だか薄寒い日である。今に月でも出そうな朝であると、彼の心の一隅に別な人間がいて思うようだった。だが月どころか小雨がしょぼしょぼと降り始めた。路行く人々の足が目立って急がしくなってゆく。玄竜は電車路の真中を狂犬のようにあてどもなく進んで行った。もうぼうぼうの頭が雨に濡れて渦を巻き、肩は雨で重そうに垂れていた。自動車が傍を掠めて走り電車は後ろの方で激しく警笛を鳴らす。その音がようやく耳にはいると彼は黙ったまま静かによけるのだった。時にはよけると共に振り返って拳を振り上げて、「野郎僕を殺す気か」と狂人のように叫んだ。
けれど半時間あまりも歩いて師範学校前辺りまでやって来たかと思うと、ふと何かに取り憑かれたように右に折れて暗い小路の方へはいって行った。泥が靴にはねつき靴は水を蹴る。その中に雨は本降りになり出した。路地をばたばた走っていた人々は驚いて立ち止り、振り返って見て首を振った。彼はどこまでもどこまでも小路の続く限り、無我夢中に左へ曲ったり右へ抜けたりしつつ縫い歩いて行くのだ。今自分は寺を捜して行くんだと、ちりぢりにほぐされた神経の一つが遠い所でのように囁く。その小路をしまいまで登りつめれば妙光寺になると思われているのだった。再びあの新町裏小路の蜘蛛の巣のような迷路にはいっていたのである。玄竜の幻覚においては、それはポプラの亭々として立つ広い並木路のように見える。泥だらけの下水は綺麗に水の澄んだ小川の流れのように思われる。そこでは盛んに蛙が口をそろえてぐわっぐわっと鳴き騒いでいるような耳を聾するばかりの幻聴を聞いた。その上風がひゅうひゅうと吹き荒んでポプラの枝がへし折れそうに見える。もはや彼の足は躓いたりのめったり、水溜りにあやまって落ち込んだりしていた。でも彼は夢中になって這い上る。その時に突然足元の方で蛙共が、
「鮮人!」
「鮮人!」
と騒ぎ出したように聞えたのである。彼は怯えたようにいきなり耳を塞いで逃げ出しながら叫んだ。
「鮮人じゃねえ!」
「鮮人じゃねえ!」
彼は朝鮮人であるがための今日の悲劇から胴ぶるいしてでも逃れたかったのであろう。ところが突然彼の鼓膜が轟音を立てて爆発したように思われたが、不思議にも先の蛙共の音は消え失せ、何かしら急に辺り一面から不思議な音が聞え出した。それがだんだんと複雑に大きくはっきりと聞えて来る。いつの間にかもう何千何万の人々が唱え合ってでもいるような、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経という念仏が、太鼓や木魚の音にのって海のように彼の周囲に拡がってしまった。彼はその中を恰も泳ぎもがきながら救いを求めるように慌てふためきつつ徨い廻った。だが迷路は思いのままにぐるぐると筋を引いているので、どんなに歩けど歩けど果しがない。混乱の中ではあるとはいえ、玄竜は極度の焦躁に追いたてられて、あー坊主共のお経や念仏が一斉に僕を呪って追い廻しやがるぞと叫びつつめちゃめちゃに走った。それで躓いてどさりと倒れることもある。のそのそと又這い上る。こうして彼は目だけを赤々と燃えたぎらせ狂った泥牛のように怖ろしい恰好になった。だがその実今度こそお経や念仏のただよう海風にあおられて、ふわりふわり天上へ上って行きそうな気になった。ところがそうではない。彼の心の真底ではちゃんと自分が娼家界隈へはいっていることを知っているのである。本当は自分の泊ったことのある家々をあがきつつ捜し廻っている訳なのだ。けれどどこにもかしこにも同じような赤や青のペンキを塗りたくった家ばかりで、折からざあっと土砂降りになった雨の水煙りにけぶって見えなくなる。彼は腕を振り上げて何かを二言三言声高に叫んだ。それから突然又殺気だった断末魔の闘牛のように怖ろしい勢で駆け出し、一つ一つの家の大門を叩き廻り始めたのである。
「この内地人を救ってくれ、救ってくれ!」
彼は息をぜいぜいさせながら喚くのだった。そして又他の家へ飛んで行き大門を叩きつける。
「開けてくれ、この内地人を入れてくれ!」
又駆け出す。大門を叩く。
「もう僕は鮮人じゃねえ! 玄の上竜之介だ、竜之介だ! 竜之介を入れてくれ!」
どこかで雷がごろごろと唸っていた。
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