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日本の古代都市と東アジア交流
2011년 11월 18일 18시 47분  조회:2142  추천:0  작성자: 망향
 

日本の古代都市と東アジア交流

 

国際日本文化研究センター・宇野隆夫

 
1 はじめに
 日本列島において,東アジア諸地域との文物交流は,旧石器時代から現代に至るまで盛んであり,その社会発展の原動力となってきた。文明の形成において重要な都市建設についても,同様の背景の中で推移した。
 都市の定義は色々あるが,5〜10ヘクタール以上の規模,密集した居住とその計画的配置,濠や城壁など都市の内と外を画する施設の存在,などを指標とすると,日本列島では弥生時代の環濠集落に古代都市の端緒があり,藤原京・平城京・平安京という日本律令国家の首都がその完成形態であると考えることができる。
 この日本列島の古代都市は連続的に発展したものではなく,弥生時代の環濠集落が一度途絶えてから復活するという過程をへた。この現象も東アジア交流に根ざしたものであることを述べたい。
 
2 弥生環濠集落の成立と衰退
 日本列島では弥生時代の初め(紀元前10世紀前後)に,北部九州で環濠集落の建設が始まり,速やかに西日本,中部日本に広まっていった。福岡県板付遺跡をはじめとする弥生環濠集落の濠は地形に合わせて不定形であり,同時代の中国の城市にみる版築による城壁築造の技術はない。
 弥生環濠集落の遠い起源は,中国陝西省姜塞遺跡・半坡遺跡や山東省城頭山遺跡など新石器時代前半期のものの系譜をひき,直接的には東北アジアからの影響を受けて成立したものであると推定できる。とりわけ韓国慶尚南道蔚山市検丹里遺跡のような環濠集落の直接的な影響の下で成立したとみられる。
 弥生環濠集落は規模が大きく,多重の濠をもつものがあるなど,今のところ朝鮮半島ではみつかっていない特色をみることができる。しかしいずれそのような環濠集落が朝鮮半島でも発見される可能性が高いであろう。中国では河南省鄭州商城をはじめとして戦国時代の城市に至るまで,外城と内城あるいは大城と小城からなるものがあり,弥生環濠集落の多重環濠のレイアウトとなんらかの,おそらくは朝鮮半島を介しての関係があった可能性がある。
 弥生時代環濠集落は,弥生時代を通じて存在したが,弥生後期には数が少なくなり弥生時代の終わり頃(西暦3世紀頃)にほとんどが廃絶した。その結果,内城・小城に相当する小さな区画が居館として独立し,外城・大城の居住者は空間的に分離されて分散的に暮らすようになった。
 このことは弥生時代の戦乱と結びつけて理解されることが多いが,本格的な環濠集落を最初に築き,またその密集地帯であった北部九州の福岡平野において,最も早く環濠集落が衰退したことに注目しておきたい。福岡平野では紀元前1世紀を中心とする前漢鏡を舶載する頃,いち早く環濠集落を営まなくなった。それに変わって福岡平野に広く直線道が建設された可能性がある。
 この頃は中国正史(漢書)に倭人の遣使が初めて記録される頃であり,その多くは北部九州の有力者が遣使したものと推定できる。またこの頃は倭が百余国に別れて統合過程にあり平和な時代であったとは考えにくい。
 紀元前1世紀に倭人が遣使した前漢長安城をみると,それが戦国時代までの城市と大きく異なることが分かる。前漢長安城は大規模ではあるが,その大多数が宮殿地区であった。そして従来は外城・大城に居住しいていた商工業者をはじめとする一般民衆は,主に陵邑などに分散居住したと考えられる。そして長安城が所在する関中平野には長安城と一体的に直線道路が設計・施行されていたと考えられる。
 このようにみるなら,当時の日本列島において最も高度な社会を形成していた福岡平野の奴国を中心とする国々は,前漢帝国の都城建設の原理をよく理解し,それを自らの支配領域において再現しようとしたことが,不定形な濠をもつ環濠集落を捨てた有力な背景であったと推定しておきたい。環濠集落の衰退傾向は,このような漢帝国の都城の情報の伝搬・採用過程を示している可能性が高い。
 中国では,三国時代以後,里坊をもつ都城が復活していくが,日本では古墳時代を通じて西暦6世紀まで宮殿・居館を独立させて建設する方式が続いた。この時代は中国周辺の諸勢力が最も独自色のある営みをした時代であり,倭もその一例になるであろう。
 
3 古代都城の建設と東アジア交流
 日本列島では,西暦7世紀末に至って本格的な都城建設を開始したが,そこに東アジア交流,あるいは強大化した隋唐帝国を軸とする国際的な緊張関係という背景が存在したことは間違いない。
 それまでの日本列島の有力者の支配拠点は豪族の居館であり,その頂点に大王の宮殿があった。そして大王が代替わりする毎に新しい宮殿を建設することが基本であった(歴代遷宮)。このようなあり方を一朝一夕に改めて都城を建設することは当時の支配層にとっては難しいことであり,飛鳥時代(西暦6世紀期末〜7世紀)が,遣隋使派遣を契機とする重要な準備期間であった。
 飛鳥時代の最大の変革は,一時的な大阪・難波宮への移転を例外として,宮殿を奈良県南部・飛鳥の小空間に固定したことにある。その重要な契機は西暦588年に百済・高句麗との関係によって可能となった飛鳥寺の建設に求められるであろう。仏教は,もとよりインド・中国をへて東北アジアに広まったものであるが,その社会的に位置には大きな違いが存在したようである。唐帝国においては仏教が重視された時期もあれば廃仏に時期もあったことに比べて,日本律令国家ではほぼ一貫して仏教は重要であった。また発見された寺院・堂の数も千に近く,国土の広さに比較して非常に多くの数が営まれた。このことの一因に,飛鳥寺建立が律令国家建設の起点の一つであったことがあると思われる。
 飛鳥寺は,百済渡来の技術者が主導して建設されたが,その方位は正方位であった可能性が高く,日本で最初の天文観測による正方位の地割の施行がなされたと考えられる。飛鳥地域には従来,斜行する地割があったが,7世紀前半には正方位の地割がなされて宮殿・寺院を整然と配置した。このことは飛鳥にとどまらず,奈良盆地全体を縦断・横断する正方位の直線道路建設につらなり,後に都城建設の基準線となった。
 690年に着工して694年に遷都した藤原京は,日本の本格的な都城として最初のものであった。藤原京は調査が進展した結果,過去の復元案が否定され,平城京・平安京をしのぐ大きさの正方形であり,東西・南北各9条の大路で10×10の地区に区画しその中央に宮を配置している。
 藤原京は,唐長安城とは非常に異なるものである。そして東アジアの律令国家は都城を建設するという点においては共通していたが,藤原京と同じレイアウトをとるものは,一例も存在しない。当時,日本と唐・新羅は軍事的な対立状態にあり,遣唐使の派遣が中断していた時期に当たる。そのため長安城の情報を得ることができず,中国の古典である『周礼』に描かれた理想の都市に準じて設計したとする説が有力である。
 藤原京は,日本が唐・新羅に白村江で破れた後,内乱をへて政治権力の統一が実現される中で建設したものである。それは東アジアの諸勢力が隋唐帝国に対抗していくためには,従来の社会体制では不可能であることを自覚して律令国家の建設を目指したことと深く関わっていた。私は,当時,長安城の情報が乏しかったのではなく,唐の冊封体制の外にあって,独自の国家建設を目指した一つの象徴として藤原京を設計・施工したものと推定している。
 西暦710年に遷都した平城京は,遣唐使派遣の復活を契機としたものであり,明確な平城京型の都城として建設した。宮を京の北端におくことをはじめ,唐長安城と平城京の共通点は多く,渤海上京龍泉府との共通点も多い。同時に,平城京は唐長安城の単なる縮小版ではなく,全体の形,羅城,条坊の数,宮の建物配置原理など,相違点も数多く存在した。おそらくこれらの相違点は,日本律令が唐律令に変更を加えていることと同様に,意図したものであり,冊封と東夷の中華帝国建設との微妙な位置にあった日本律令国家の独自性の表れであったと推察している。
 4 結 び
 以上,日本の弥生環濠集落と古代都城について,東アジア交流に焦点をあてて,その推移を考えた。そしてそのいずれも東北アジアあるいは中国王朝との関わりが重要であったと考えられる。
 この中で,弥生環濠集落の盛衰が東アジア交流を背景とし,それほど明確な個性を発揮しなかったのに対して,古代都城は律令国家の形成という共通する社会基盤を形成しながら,それぞれの個性をより強く発揮したと考えた。
 日本の弥生時代は国家形成過程の初期段階であり,国際情報・文物や漢帝国の力を背景とすることが非常に重要であった。これに対して,日本古墳時代や朝鮮三国時代は,中国周辺地域での国家形成の歩みが早まった時代であり,最も個性的な政治中心を作り競合していたと考えられる。古代律令国家の段階に至ると,諸勢力は古代国家形成の頂点をむかえると同時に,強大な隋唐帝国と対峙することとなった。この中で律令制度を採用し都城を建設したが,それぞれの古代国家の独自性が否定されることはなく,所々において個性を発揮したことを考古資料にみることができると思う。
 
参考文献
宇野隆夫2006「中国城市の発展過程と日本の都市形成」『東アジアの交流と地域諸相』思文閣出版,pp.53-67。
井上和人2008「日本古代都城造営の史的意義-東アジア世界の歴史潮流の中で-」『古代東アジア交流の総合的研究』国際日本文化研究センター。
 

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